川越織物市場と保存に至るまでの経緯

 2001年11月、高層マンション建築のため、旧川越織物市場が解体されようとしました。私たちは市内外の幅広い賛同を得て、「旧川越織物市場の保存再生を考える会」を結成し、織物市場の保全を訴えました。川越市による市場建造物と土地の買い取りを求める署名運動を中心とした行政への陳情、保存再生基金への募金活動、自主警備、多角的な利用方法の検討などをおこなってきました。
 その結果、2002年12月10日に、川越市土地開発公社が土地を購入し、建物はすべて川越市に寄贈され、旧川越織物市場が現在地で保存されることが確定しました。

川越織物市場はどういう経緯で開設されたのでしょうか。

 もともと、川越は、江戸期から明治期まで武蔵国西部(今の埼玉県西部から東京都三多摩地区北西部)までの織物その他の産品の集散地として栄えてきました。

 江戸時代の後半期、入間郡とその周辺地域は、足利・佐野、尾西と並ぶ三大綿織物産地の一つでありました。シックで粋な結城縞や、異国情緒あふれるストライプの舶来唐桟を模倣した和唐桟という、江戸市場向けの高級縞木綿が盛んに織り出されました。川越は全国屈指のお洒落の発信基地となって、着物の流行ファッションで全国を席巻するほどになりました。
 なかでも、幕末期に国際貿易港として横浜が開港すると、中島久平をはじめとする川越商人は生産者の機屋といっそう連携を強めることになります。そして、当時最先端のヨーロッパの技術を導入しました。それは、イギリス製の細かくて均質な輸入綿糸とドイツやフランス製の化学染料を積極的に応用したもので、色鮮やかな縞木綿や、綿糸と絹糸をミックスした交織物(まぜおりもの)などニューテキスタイルを開発しました。そして、幕末・明治前期の流行市場をリードする目覚しい勢いを発揮することになるのです。
 ところが、明治時代の後半になると、織物の大衆化が進み、川越は産地間競合の激化や、不景気と経済恐慌の打撃を受けることになります。幕末・明治の流行ファッションをリードした川越は、織物集散地としての地位が弱まり、お洒落の発信力も以前のような勢いを示せなくなりました。

 そのため、不況下でも、あえて織物市場の建設に踏み切ることで勢力挽回を意図したのが、織物市場建設プロジェクトでした。この織物市場建設プロジェクトは、川越商業会議所による地域経済振興策の切り札の一つでした。織物市場の建設は、入間郡の各地域で生産された織物類が、以前のように川越にたくさん集まることで、再び商いが活発になり、地域経済が息を吹き返すようになるのでは、と期待されたからです。

川越織物市場の開業後はどうなったのでしょうか。

 川越織物市場は、棟上から3週間、全体でも2ヶ月余りという短期間でつくられました。川越中の建築業者が集められ、共同で作られました。1910年(明治43年)3月3日に上棟式、その3日後、市場組合規約の制定、そして、3月25日に開場式が挙行されました。ついに、同年4月5日、待望の初市が開かれました。
 毎月5と10のつく日に市が開かれ、大変なにぎわいだったということです。

 このように多くの期待を背負って開設された川越織物市場ですが、大正後期には、織物市場としての機能を終えてしまいます。その後、織物市場の建物は、借家として利用されることにより、現在までその建物が奇跡的に残されました。
 1963年(昭和38年)には三国連太郎主演の映画「無法松の一生」のロケ地として利用されました。

マンション建設が計画された後、どのようにして保存されたのでしょうか。

こちらの経過をご覧ください。